2015年10月01日

統一原理に基づく経済社会の打開策

統一原理に基づく経済社会の打開策


森田義彦

2015.3.19


はじめに

 世界が様々な問題を抱えている今日であるが、現在、文鮮明総裁とその令夫人韓鶴子総裁を創始者とする統一運動では、真の家庭の再建運動に取り組んでいる。
 神が天地を創造したのには理想実現の目的があり、これは個人の完成と家庭の完成、世界の完成の三段階として現れる。それゆえ、統一運動では、社会全体のすべての家庭が真の家庭を完成しうるように運動している。

 そして、三段階目の世界の完成は、この地上に、神が創造の目的とされた理想世界を建設することに他ならない。実際、現実世界は、理想世界とは程遠い様相を呈し、多くの問題を抱えている。家庭レベルと同様に、国家レベル、世界レベルにおいても、理想を実現しなければならない。

 統一運動ではこれを共生共栄共義主義と呼んでおり、その理念は明確にされている。しかし、理想世界をいち早く実現するため、この具体的な形や、現実世界を理想実現にまで導くプロセスを提示する必要がある。


 本論文は、この研究の第一歩として、集った有志との議論を踏まえながら、まとめたものである。協力していただいたのは、石井宏氏、古田武士氏、杉山勝行氏、宮本憲英氏、中畔芳治氏をはじめとする統一経済論研究会の諸氏である。また、世界平和統一家庭連合教会成長研究院からは、多くのご助言をいただき、これを、文鮮明総裁・韓鶴子総裁ご夫妻ならびに統一運動を証しする経済論として、あくまでも個人の論文としてなら一般公開してもよいという許可を頂いた。




統一原理

 世界平和統一家庭連合の創始者である文鮮明先生によって、宗教と科学とを統一された一つの課題として解決しうる理念がもたらされた。統一原理[1]と呼ばれるものであり、いかなる存在物も、ある他者との間に関係性を初めから備えて存在しているという点に着目するものである。このことが宗教領域と科学領域に共通する普遍的要素であり、これによって、宗教と科学を統一された一つの課題として解決しうる道が開かれた。

 統一原理が明確にしたところによれば、いかなる存在物も、存在の最初から、ある他者との間に相互に補完しあう関係性を備えている。この関係性は、存在の最初からあるのであるから、明らかにそれ以外の第三者によって賦与されたものである。すなわち、これを賦与した第一原因的存在の存在が明確になり、存在物はすべて、絶対者と呼ばれる第一原因的存在である神によって相互補完的関係性を賦与されて存在していることになる。いかなるものも神によって生かされた存在であり、すべての存在物が存在する理由は、神の愛の対象だということである。

 神と人間との最も根本的な関係は父子の関係である。存在世界においては父母と子女の親子の関係である。神は心情的存在であり、全人類に共通する唯一の真の親である。

 さらに、人間相互間の関係は、神によってもたらされた関係である。その背後には、神の理想の実現という目的がある。神と人間との関係を縦的関係と見れば、人間どうしの関係は横的関係である。人間どうしを取り持つ中心者は神であり、神を中心として人間同士が関係性をもって一体化するということである。神の理想が結実する基本的形態が家庭である。そして、家庭、国家、世界と、範囲が大きくなったとしても、つねに神が中心であるから、そこには神の理想実現という目的があり、この家庭理想はいずれにおいてもあてはまる根本原理である。

 社会に現存するいかなる問題もこの関係性を無視し逸脱したところに根本的な原因がある。今日の世界は本当の幸福を生み出すための新たな思想を探し求めざるを得ない時代になっているが、上述した単純明快な内容にすべての基本的な解答がある。すなわち、社会に現存するいかなる問題もこの家庭理想の関係性を回復することによって解決されるのである。

 統一原理で説明されているが、人間がこの関係性を逸脱してしまった根本的原因は堕落と呼ばれるものである。これを修復し、神を中心とした人間本来の位置と関係性を取り戻すために行なわれているのが、世界平和統一家庭連合で挙行されている祝福結婚式である。


統一原理に基づく経済体制

 この統一原理によって導き出される、社会全体に関する理念が、三大主体思想と共生共栄共義主義である[2]。原理講論には「天の側の社会主義社会を指向する人間の本心は、結局、共生共栄共義主義を主唱し、神の創造目的を完成した理想世界をつくるところにまで行かなければならないのであるが、この世界が、すなわち、再臨されるイエスを中心とする地上天国なのである。」とある[3]。共生共栄共義主義は、人類の親である神を中心とした人類一家族社会主義であり、人類すべてが求めている理想世界を意味する主義である。

 三大主体思想は、社会の中で主体的立場に立つ父母と先生、組織の長を通して、神の愛が社会全体に広がっていくことを説いたものである。この場合に、理想家庭の理念が核となり、三大主体が父母の愛を実践する観点が述べられている。

 個々の家庭における天国理想の実現は、真の家庭を実現する運動によって推進されている。個々の家庭は家庭内において、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟姉妹の愛に満ちた理想家庭を実現することが出来る。しかし、たとえすべての家庭がそのような理想家庭を実現したとしても、それらは社会全体から見れば経済主体のひとつひとつに過ぎない。そして、社会の経済のしくみに従わざるを得ない。従って、社会全体の天国理想を実現するためには、社会全体の経済のしくみを天国理想に一致させる作業が必要である。

 共生共栄共義主義は経済・政治・倫理に関する理念である。本論文では、特に、今日混迷を極め、また、人類一人ひとりの日々の生活に直接影響している経済に関して、統一原理と共生共栄共義主義に基づいた経済体制について述べることにする。


 一般の経済理論では、指標を用いて現状を分析し、よりよい方向へと導く科学的な手法が用いられている。これに対して、統一原理に基づく経済理論はその前段階を扱うものであり、先に述べた統一原理に則って、経済の正しい骨格を与えるものである。かつて二宮尊徳は「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と言った。利益を追求する経済活動はともすれば道徳を忘れがちである。とはいうものの、現実社会においては、道徳ばかりで生きていくことは出来ない。誰しも道徳を尊重しない人はいない。それでも、現実の経済のしくみがこれを許してくれない。だが、このままではいつまで経っても世知辛い世の中に春は訪れないであろう。宗教と科学を統一した一つの課題として解決しうる統一原理は、この世に春を呼ぶ根本的な原理なのである。


 すべての人間を生かしたのは神である。人間が生きていける環境を準備し与えてくれたのも他ならぬ神である。神は人を差別しない。この地球環境は神が人類全体に与えた、神と人類全体の共同所有物である。従って、神の心情に合致するように、すべての人に神の愛が等しく降り注がれるようにしなければならない。経済の本来の使命は、神の真の愛を地上に具現化することである。一部の人だけが富に浴し、一部の人だけが貧困にあえぐままになっている経済体制は不完全な経済体制といわざるを得ない。


 生命の起源である父母の愛は、まず生活の保障として表れる。したがって、生活保障は、社会の構造の根底をなすものとして、すべての国民に等しく施されるようにしなければならない。これは、神の真の愛を表すものであるから、無条件でなければならず、労働を前提としたものであってはならない。家庭において子供が無条件に育まれるように、すべての人が無条件に生きていけることが基本でなければならない。

 そして、このような基本的福祉の土台の上に自由経済が築かれてこそ、人間の本来の能力が発揮され、社会が、生きづらい社会ではなく、生きる喜びと相互扶助の愛に満ち溢れた自由で平和で幸福な社会になるのである。
 

 ここで、もし生活が無条件に保障されたら人間は怠惰や悪に傾いてしまうのではないかと疑心暗鬼になる人もいるかもしれない。しかし、人間には誰しも「ために生きたい、価値を追求したい」という本心の欲望があるのである[4]。父母から愛を受けたら、子女は恩を返したい気持ちが自然に湧いてくる。共生共栄共義主義に基づく経済体制は、すべての人がこの「ために生きたい、価値を追求したい」という本心に素直に従って生きることの出来る愛に溢れた社会である。たとえ社会の変革に伴い最初のうちは混乱があったとしても、じきに理想的な経済社会が調和を見せるようになる。人々が生活の心配なく本心の思いに素直に従って生きられる社会が実現される。



統一原理に基づく理想社会の経済機構と資本主義社会の金融システム
 
 では、このような理想的な経済社会をどのようにして実現するか。上述のように、いかなる問題も、神を中心とした基本形に解決の糸口を求めることができる。すなわち神の創造の原理に従って考えることである。この参考例は、神によってもたらされた現存世界に見ることができる。

 理想社会の経済機構は、完成された人体の構造とよく似ていると考えられる[5]。

 資本主義社会における主な経済政策であるケインズ主義、マネタリズム、サプライサイドという三つの経済政策を人体モデルの立場から考察してみると、それぞれ、肺を中心とした消費体制、心臓を中心とした血液の補給体制、胃を中心とした生産体制の強化に相当する。そして、経済社会において生命力に相当するものが社会をよりよくしたいという精神にあたる創造力である[6]。

 しかしながら、さらに人体構造を参考に考えてみると、上記の内容をすべて施したとしてもまだ不完全なところが資本主義社会にはある。

 金融は、人体モデルの立場からは血管と血液に相当する。人体構造において、血液は、一定量が、どこにも滞ることなく、体内を循環することによって、人体の健康と成長が維持されている。血液の正常な循環が阻害されると、たとえ丈夫な胃腸と心臓と肺を持っていても、人体は健康を保つことが出来ない。資本主義社会には、これと同様の阻害が存在する。これは、資本主義の思想と体制が元から抱えている問題である。

 資本主義とは、その名のごとく、資本を中心とした主義である。資本とは貨幣のことであり、貨幣を媒介体として社会を発展させ、豊かにする。従って、豊かさは貨幣量として返ってくる。貨幣を多く持てば、その分豊かになる。このように、資本主義は、いうなれば、貨幣量が豊かさの尺度となる社会である。

 しかしながら、貨幣は、貨幣自体は、食べることも出来ないし、燃料にもならない。豊かさは財やサービスを獲得したときにはじめて得られるものである。貨幣は、この財やサービスといつでも交換ができ、備蓄も可能である。このように貨幣は生活の便利な道具としての役割を担っている。それで、貨幣はそれ自体で豊かさを表すことになるのである。

 これが、資本あるいは貨幣を中心とした資本主義の思想ならびに体制であるが、ここに、今まで気が付かなかった構造上の欠陥が初めから存在している。それは、血液のように循環して経済社会を維持しているはずの貨幣が、一方において貯蓄してとどめておくことも可能なことから、経済体制の維持に支障を来たすということである。

 経済において、資本主義という思想と体制は貨幣の循環を阻害する要因を最初からはらんでいる。それは、貨幣を留保することすなわち貯蓄である。この弊害は、たとえ信用創造という形で貨幣が市場に還流されても根本的には解決されない。経済を衰えさせる原因は、まさにここにあるのである。


 これは、貨幣循環の簡単な理論的説明で、説明することが出来る。
 
 以下の説明は、経済学における専門的な説明ではなく、きわめて平易で基本的な説明である。したがって、専門家の方々には少々物足りなさを感じさせるかもしれないが、ご容赦いただきたい。しかし、ここには、これまでの経済学では見逃されてきた内容が述べられている。

 ある商品の生産から消費までに伴う貨幣の流れを考えてみる。生産は、財やサービスといった新たな価値を生み出し、社会を発展させ豊かにするのであるが、この発展過程の中で、貨幣のみに注目してみるのである。
 事業主は賃金、材料費、その他の経費として貨幣を支払い、商品を生産する。材料費やその他の経費として支払われた貨幣も外注先で賃金として支払われ、結局、事業主が支払った貨幣はすべて誰かの手に渡される。これが事業主が生産時に放出した貨幣の総額である。ただし、ここでは理論的な貨幣循環の考察をしているため、賃金支払いまでのタイムラグや材料調達に要するタイムラグや買掛金などの時間的要素は考慮していない。
 そして、事業主の利益は、売上収入から生産時に放出した総額を差し引いたものとなる。
 ゆえに、事業主の売上収入は、生産時に放出した総額と事業主の利益の和である。ただし、ここでは生産されたものが計画どおり消費された場合を考えている。そして、この、事業主が生産時に放出して誰かが受け取った貨幣と事業主が利益として受け取った貨幣の和を、貨幣の分配と呼ぶ。
 また、同時に、事業主が得る売上収入は、市場から回収する代金であるが、市場から見れば消費者が支出する代金でもある。
 したがって、上記のことから、貨幣の分配と消費支出と生産売上収入とは理論上等しい。

 上記は1つの商品についてのみ考察した場合だが、実際の市場には複数の商品が存在し、人々は複数の商品の中から一部を選択して購入している。ある人にとって、生産に関わった商品と購入する商品とが異なることは当然である。また、貨幣の分配を、賃金として受け取るか、役員報酬として受け取るか、利子とか地代家賃として受け取るかも、人によって異なる。しかし、「分配」と「消費」と「売上」のそれぞれを、市場全体で合計をとれば、生産されたものが計画どおり消費された場合、分配と支出(消費)と売上(回収)の貨幣量は理論上等しい金額となる。商品が生産され、消費されることによって、市場全体は豊かさを増すが、貨幣は、事業主から分配され、すべてが消費支出となり、売上として回収されて完全に一巡する。

 ここまでの理論的考察でわかったことは、生産されたものが計画どおりに消費された場合、貨幣は、一切どこにも滞留することなく、完全に一巡し、まったく増減がないということである。

 確かに、実社会においては、内部留保や、貯蓄からの支出、損益や売掛・買掛などが存在し、理論どおりの貨幣循環がそのまま現れることはない。しかし、そういった経済主体間の貨幣の一時的な片寄りを理論上除外し、生産、分配、消費の過程における貨幣の役割のみを見た場合には、貨幣はどこにも滞りがなく一巡して増減は発生しない。

 ここまでの説明を、経済学に詳しい人は、マクロ経済学における三面等価の原則のことかと思うかもしれない。しかし、そうではなく、ここでは、「貨幣」の「循環」ついて説明している。

 このような、理想的な状態を考えた上で、資本主義の基本的なシステムである貯蓄と信用創造について考察してみよう。

 まず、信用創造がない場合を考える。貯蓄がない場合は、前述の通り、貨幣は、分配、消費、売上のプロセスを一巡し、生産されたものは計画どおりに消費される。ここで一部の貨幣が貯蓄されたとする。すると、「分配の貨幣量」と、「消費の貨幣量」に差が生じるので、売上が不足し、生産過剰に陥り、計画通りにならない。これが、貨幣が循環しないことによる経済停滞の原因となる。

 しかし、経済主体にとって貯蓄はどうしても必要である。余計な支出はする必要がないし、将来のために資金を貯めておきたい場合もある。

 金融システム全体としてこの問題を解決するため、貯蓄された貨幣を市場に還流させる方法として、信用創造が考えられる。

 信用創造は、貯蓄された貨幣を金融機関が他の人に貸し出すことによってなされる。分配された貨幣は、一部が貯蓄されたあと貸付けられて市場に戻っていく。「分配の貨幣量」のうち貯蓄されずに消費に回された貨幣量と貯蓄されて貸付けられてから消費に回された貨幣量が合計されて、「消費の貨幣量」と同じになり、貨幣は一巡する。

 しかし、このとき、貨幣を貯蓄して貸し付けた側と、貨幣を借りて消費した側との間に貧富の差が生じる。貨幣は確かに循環しているが平等に循環しているわけではなく、貸し付けた側に当然有利に循環している。借りた側は消費する立場に立ち、貸し付けた側に貨幣が蓄積される仕組みになっている。従って、信用創造は、一見貨幣の循環を成立させながらも、貧富の差を次第に大きくさせる。これは正常な貨幣循環とは言えず、これが経済停滞の原因となる。

 また、貸付は、利益が期待できない場合には完全になされず、これもまた貨幣の循環を阻害することになる。



資本主義社会を理想的な経済社会にするために改善すべき点

 この問題を解決するためには、貨幣の正常な循環を確保しつつ、これまで貨幣として貯蓄してきた収益を貨幣とは別の形で貯蓄する経済システムに転換をすればよい。

 これを人体の血液に例えれば、貯蔵はいつでもエネルギーに変換できる「脂肪」という形で行われ、血液自体は滞留なしに循環することによって健康が維持されることに相当する。

 これによって、資本主義の抱える問題は解消する。貨幣循環の停滞によって一部に生じていた貨幣不足から来る経済活動の停滞が解消される。貨幣循環の健全性を取り戻した経済社会は、必要なところに必要なだけ貨幣を流入することが可能になり、人々の心と一致し、国民生活から様々な支障を取り除き、健全な社会が建設されるであろう。

 これは、具体的には、どのようなシステムになるであろうか。

 各経済主体が金融機関に貯蓄した所得が、いつでも換金可能な政府発行の有価証券と売買交換され、貨幣が政府の所得として環流するシステムである。

 なぜ政府なのかというと、国民の生活を保障し、公共事業を主導して国全体の経済発展に責任を持っているのが政府だからである。貨幣と有価証券の売買交換は個々の経済主体が貨幣を金融機関で入金・出金するのと同時に自動的になされる。この有価証券は、電子マネーであり、この残高は金融機関のコンピュータシステムに記録され、この有価証券自体を持ち出して売買することは出来ないものとする。国民の所得はこの有価証券の形で貯蓄される。金融機関から払い出されるときは貨幣の形で戻ってくるので、国民生活はこれまでと何ら変わるところはない。

 では、金融機関に入金された所得はどの程度この有価証券と交換されなければならないだろうか。前項で述べた貨幣循環の考察によって、分配と消費(支出)と売上は理論上等しくなければならない。従って、経済活動で得た収入は理論上すべて消費支出に回されなければならない。従って、当面消費支出に回されず金融機関に入金された所得は出金されるまでの間、すべて有価証券と交換されなければならない。これによって、貨幣は、政府、国民の間を完全かつ永久に循環し、経済を完全に活性化するのである。

 この貨幣の完全な循環によって、金融システムの基本構造を、神の真なる愛に基づいた共同所有の経済理念と合致させることが出来る(図1、図2)。政府と国民全体が共同のひとつの財布を持つようなものである。そして、政府は、国民の生活を保障し、国家全体の経済発展のために必要なところへ速やかに資金をまわすことが出来るようになる。すべての人が生活の不安から解放され、「ために生きたい、本当の価値を追求したい」という善なる本心の欲求に素直に従って生きられる環境が整うのである。

 貨幣は、本来、天から与えられた資源の公平な分配を実現するための道具である。決して、誰かが富を独占したり、国家経済と国民生活を窒息状態に陥れたりするような代物ではない。必要に基づく過不足のない豊かな生産と公平な分配が、金融システムをもって実現されなければならない。


 では、金融システムを改革しさえすれば、理想世界がやってくるのだろうか。

 もちろんそんなことはない。世界をよくするのは人間自体なのであって、システムがよくなればそれで理想世界だというわけではない。しかし、本論文で指摘していることは、少なくとも現システムが人間の本心と合っていないので、人間の本心を満たしうる形にしなければならない、ということである。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れよ」というイエス・キリストの言葉がある[7]。21世紀を迎えた人類は新しいぶどう酒に例えることが出来る。人類を包む経済社会は皮袋である。本論文は新しい皮袋について論じているのである。

 また、今日の社会は、貨幣制度を用いて社会全体を管理している。それゆえ、政府の最も重要な仕事の一つは予算を組むことである。貨幣制度の改革は人間が社会全体を管理する方法を改革することを意味している。

 貨幣制度の改革は社会全体を変えることになるが、それと同時に政府の予算編成が社会のあり様をそのごとくに変えることになる。共生共栄共義主義に立脚した家庭理想を実現する予算編成がなされなければならない。



共生主義経済社会の姿

 ここまで、統一原理に基づいた共生主義経済体制と、現在の資本主義社会を、どこを変えたらこの経済体制に改革できるかを述べてきた。体制の変更は、国の為政者によってなされなければならない。したがって、上述の改革は為政者に委ねるほかはない。三大主体思想で述べられているように、国の責任者が神の真の愛を実践してくれることを望むばかりである。また、今日の民主主義社会において、国家とは国民主権の大家族である。為政者も、国民の代表であり、国民の一人である。したがって国民一人ひとりも積極的に政治に参加し、為政者と一致協力してこの改革を実現するべきである。


 では、上述の改革がなされた場合に、社会の姿はどのように変わるであろうか。

 「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という古代ローマ時代の詩人ユウェナリスの言葉がある。社会を身体、そこに住む人々の心を精神と見れば、現在の資本主義経済社会は健全な身体とは言い難い。そこには健全な精神が宿りにくく、人々が良心的に生きようとすればたいへんな犠牲と苦労が要る。
 これに対して、共生主義経済社会は健全な身体だといえる。人々は良心的に生きやすい。


 例えば、企業が商品を生産する場合を考える。商品の価値というものは、生産に要した労働時間だけで決まるものではない。生産者側の企業努力に対する報酬期待値と消費者側の満足度との間の調節によって決定されるものである。企業は創造力を発揮してより付加価値の高い商品を提供し、これによって消費者の満足感がより高まればより一層多くの収益が上がるようになり、さらにより付加価値の高い製品が生み出されることになる。企業が得る利益は企業の創造活動に対する社会的報酬だといえる。

 資本主義社会において、今日まで、社会はこのようにして発展してきた。18世紀の産業革命以来、資本主義経済の貢献によって、我々人類の生活は飛躍的に豊かさ・快適さを増した。

 しかし、近年、社会が成熟するにつれて、資本主義の不完全性が露見してきた。

 アダム・スミスは国富論の中で、「おそらくここで注目に値することは、労働貧民の状態、すなわち大多数の人民の状態が最も幸福で最も快適であるように思われるのは、社会が富をとことんまで獲得しつくしたときよりも、むしろ富のいっそうの獲得をめざして前進している発展的状態にあるときであるということである。」と述べている[8]。

 周知のごとく、資本主義は資本の自己増殖を原動力とする経済システムである。利益率の高いところにより多くの資本が投下され、それによって効率のよい発展がなされる。そこでのある一定の発展が終わり、利益率が下がってくると、資本はそこから引き上げられ、利益率のより高い別のところへと投下しなおされるのである。

 資本の自己増殖が原動力になっているということは、資本主義は基本的に利己主義である。利己主義は最初に述べた、神によってもたらされた存在の根本原理に反している。

 そして、資本主義は、富の不平等と労働者の疎外という問題を生じさせた。この問題は、今日に至るまで解決されていない。それどころか、この問題を内包したまま、資本主義は限界に近づいている。なぜならば、資本を投下する場所がどこを探してもなくなりつつあるからである。最近では、資本主義の終わりを予言する書籍が多数出版されている。


 一方、この富の不平等と労働者の疎外という資本主義の問題にいち早く気づいたマルクスは、共産主義理論を打ち立てた。そして、富の不平等の原因が資本の蓄積にあることを指摘し、これを罪悪とみなして、資本の私的所有を否定した。また、労働者が資本家に搾取されているとみなして、資本家を打倒したのである。
 共産主義は、資本主義と強く結びついていた宗教をも否定し、無神論的唯物論の立場に立つ。それゆえ、労働者も含め、すべての人間を物と同一視した。結局、共産主義も、人間性を無視した社会をつくってしまったのである。そして、共産主義体制は崩壊した。


 このようななかで、再臨のメシヤである文鮮明先生は、共生共栄共義主義の地上天国理想をもって降臨された[9]。

 共生主義は神の真なる愛に基づいた経済理念である。民主と共産の違いは、個人の権益と自由をどれくらい認定し保障するかの程度の差でしかない。資本主義社会にもなく、共産主義社会にもなかったが、共生主義社会にあって、これを一番特徴づけるものは、神の心情である。そして、共生主義社会の経済活動におけるすべての過程は、物質的な財貨の流通過程に、心情と愛、感謝と調和が共に流れる物心一如の統一的過程となる[10]。宗教と科学、道徳と経済の統一がなされた社会であり、神の真なる愛を顕現させた社会である。

 共生主義は、統一原理・統一思想を基本とした経済理論であるから、統一原理の中心核的理論がその中心に設定されることになる。これは四位基台であるから、すなわち、四位基台経済学ということもできる。

 四位基台は、神の愛を完全に受けて、主体と対象が良く授け良く受けることによって、その存在のための全ての力、すなわち、生存、繁殖、作用等の全ての力を発揮する。主体も対象も相手のために生きてこそ自分も生かされる。その存在様相は、円環運動となり立体として存在するようになる。そして、授受作用の結果、成長・発展がなされていく。

 共生主義経済においても、発展し繁栄する基本的核心的理論は、授受法的発展の法則となる。国家における政府と国民、企業における事業主と従業員、消費社会における生産者と消費者が、神の創造理想を中心として互いのために生き、良く授け良く受けることによって発展し繁栄するのである。

 そして、四位基台の具体的、実体的な存在様相が神の愛と円環運動を基本とすることから見ると、現実的、実体的な経済の方法論において、中心的位置づけとして福祉理論と循環理論というものが適用されるのである。

 福祉理論と循環理論によるすべての経済主体の合性一体化の上に、自然万物の心情的・科学的主管がなされ、真の社会発展がなされることが基本になる。


 資本主義は資本の自己増殖という発展作用をとおして健全な社会を築こうとした。アダム・スミスの「見えざる手」を信じて、人類は経済発展の努力をしてきた。確かに目覚しい発展はしてきたが、しかし、健全な社会に到達したとは言い難い。統一原理から見るとき、利己主義による発展によって健全な社会を築くというのは間違っている。利己主義的な発展によっては健全な社会は築けない。「発展」と「健全な社会」の順番が逆であるし、発展が利己的では方向性が定まらず健全な社会には一向に近づくことが出来ない。そうではなく、健全な社会があってこそ真の発展があるのである。

 ウルグアイの第40代大統領であるホセ・ムヒカ氏は、2012年の地球サミットで、「私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。」と語り、また、「ハイパー消費が世界を壊している」とも語った。ムヒカ元大統領が統一原理を知っていたかどうかはわからない。だが、元大統領が資本主義のもたらした世界の現状をこのように指摘したのは、統一原理の観点と一致しているのである。共生共栄共義主義は、まず授受法による健全な社会構造があってこそ真の発展があるのだとする理論である。


 では、この共生主義経済によって、資本主義社会の何が変わるであろうか。

 第一は、国民生活に関して、先に述べたように、生活保障が社会の構造の根底をなすものとしてすべての国民に等しく施される。これは、神の真の愛を表すものであり、労働という発展過程よりも先になければならない。すなわち、労働を条件としないものである。
 これによって、資本主義社会に存在していた様々な形の貧困から人々は解放される。子供への貧困の連鎖であるとか、身売りであるとか、経済的不安にさいなまれた末の自殺であるとか、社会の陰で決して消えることのなかったこれらの問題は解消されるであろう。

 これまで、無条件な社会福祉といえば、ばらまきということが言われてきた。そして、ばらまき政策によって経済問題が根本的に解決されることはなかった。なぜこの政策は成功しなかったのだろうか。それは、資本主義の構造を変えないままにこの政策を行なったからである。この結果、景気は思うように浮揚せず、財政は苦しくなるばかりであった。

 資本主義の構造を共生主義の福祉理論と貨幣循環理論で改革したうえでこの政策を行なえば、人々の救済と景気の回復を同時に行なうことができる。人間は生きている限り、衣食住のための消費をしている。様々な理由で収入のない人々に分配された貨幣は消費活動を通して人々を救い、その貨幣は市場に戻り、生産者等の所得となって景気を回復し、金融機関に貯蓄されて、政府に環流する。こうしてこの政策は持続性を保つことが出来るのである。
 
 第二に、発展に関してである。国民は、政府からの生活保障と各自の経済活動の両方から所得を得る。政府からの生活保障によって、経済活動は衣食住の心配から解放された立場ですることが出来るようになる。また、財政難で発展が足止めされることもなくなる。復興財源など政府も国民も必要としているところに十分な資金を回すことが出来るようになる。これによって、人も企業も国家も、真善美愛の創造本然の価値実現欲を大いに発揮することが出来るようになる。
 企業は、衣食住の心配があるときは製品の寿命をコントロールせざるを得なかった。だが、衣食住の心配がなくなれば最高寿命の製品を生産することが出来るようになる。これまではよい製品を作りたくとも、常に収益性を考えなければならなかった。よいということと収益性とは必ずしも一致しない。しかし、共生主義社会においては、収益性を少々度外視しても、よい製品を世に出す余裕が生まれる。そして、これが環境保全にもつながる。
 国民は、生活にゆとりを持つことが出来るようになり、自分の心配をせず、他のために生きる真に幸福な人生を生きることが出来るようになる。これまでは、収入の確保に追われ、良いと思うことも出来ないことが多くあった。家庭理想に基づく共生主義社会においては、良いと思うことを素直に出来る余裕が生まれる。ここから社会は真の発展をなしていくことが出来るのである。

 第三は、財政問題の解消である。国家財政に必要な資金は還流してくる貨幣によって賄われるため、財政赤字を膨らます必要はなくなる。そして、国民のために必要な支出を迅速に行なえるようになる。また、財政のために国民から徴収していた所得税は必要なくなる。税金は義務ではなく善意から自発的に納めるものになるであろう。


 ここで、この経済モデルは国民や企業の所得がプラスでなければ成立しないのではなかろうかと思われるかもしれない。個々の企業においては時に赤字になることもあるであろう。しかし、赤字とは、収入と支出の差がマイナスだということである。このうち、支出の部分は貨幣が市場に還流していくことである。このように考えると、個々の企業においては赤字があったとしても、市場全体としてはこの経済モデルは成立するのである。

 また、この経済モデルはインフレーションを引き起こすのではないかと思われるかもしれない。しかし、このシステムにおいては、貨幣量は一定である。従って、貨幣量の増大によって引き起こされるインフレーションは起こらない。



一国から世界全体へ展開させるために

 共生共栄共義主義社会は全世界が等しく繁栄する社会である。最初は一国において実現されたとしても、これが世界全体へと展開されていくことが望ましい。

 一国において、貨幣の健全な循環がなされ、真の愛を中心として、真の平等と自由が実現され、真の幸福が実現されたとしても、これが世界全体に展開され、全世界が神のもとの人類一家族世界になるためには、異なる国家どうし、異なる通貨どうしの関係が克服されなければならない。


 これまでの世界経済においては自国の利益が優先されてきた。産業革命以降、西欧資本主義諸国は消費地を求めてその範囲を世界に拡大した。その後、人類は、植民地時代と二度の世界大戦、国際連合の成立と植民地の独立という歴史をたどった。そして、現在の国際関係は自国の利益を優先することが基調になっている。

 しかし、今日、一国を中心として経済発展を目指す時代は終わりつつある。これからは国を超えた地域や世界の繁栄なくして国の繁栄はあり得ない。共生共栄共義主義の主唱する家庭理想は、国際関係においてもあてはまるのである。そして、これを、ただの理想論ではなくて、実現させる現実論として論じることが出来る。


 世界には、資源の豊かな国もあれば乏しい国もある。しかしながら、もともと、天然資源は、神が人類全体に共同所有物として与えたものである。資源の存在場所にはばらつきがあるが、人類が克服すべきなのは、これらを全人類に行き渡らせ、全人類がともに幸福に生きる世界を完成させることである。

 共生主義の経済モデルは、国家が世界のために生きることを可能にする。貨幣の完全な循環によって、国家は、財政赤字を増やさずに、自国の資源を他国のために提供する経済活動を展開することが出来る。これは、これまでの資本主義や共産主義の経済理論においては不可能なことであった。これが、この共生主義の経済理論においては、資源の地球規模の共同所有を理論的に可能にするのである。そして、地球規模の繁栄が矛盾なく実現出来る。

 文鮮明先生は、「平準化」と言われた。文先生は「平準化」という言葉を様々なところで用いておられるが、この意味は、神を中心として四位基台を形成するという意味である。世界には南北問題と呼ばれる先進国と発展途上国の経済格差の問題がある。これに対して、技術の平準化、世界の平準化と言うのだが、これは単に平均化することではなく、互いに助け合うことを通して一体化し共に発展していくことを言っている。技術の供与による南北の富の平準化である。そして、貿易については、自国のためだけの自由貿易ではなく、神の創造理想実現の方向性をもった授受法的貿易を提唱している。今まで少数の豊かな工業大国にばかり繁栄をもたらしてきた技術の恩恵を、すべての国々が共有しなければならない。世界は貿易の絆によって連結され、共通の繁栄が行き渡ることになり、戦争は過去のものとなるであろう。


 これまで世界は、不完全な経済システムのゆえに、神によって与えられた資源を理想どおりに全人類で分けあうことが出来なかった。むしろ、各国は資源を争奪することに奔走してきた。経済力は軍事力の増強を可能とし、軍事力を背景に強引に利権を獲得するなど、厚顔無恥な行動を繰り返してきた。宗教はその理想を実現出来なかったし、民族間の対立の溝は深刻なまでに深まった。近年、このような社会に不満を抱き、社会に対して反旗を翻す若者たちも後を絶たない。

 この背景には、国家だけでなく、営利を目的とした企業の影響もあった。軍産複合体という、軍需産業を中心とした私企業と政府が連携した政治経済形態があり、戦争をあおるようなこともあった。

 また、国家は、自国の財政難のために、他国のことまで考える余裕がないといった側面もあった。

 しかし、神の心情に帰一する、この共生主義の経済モデルの出現によって、資源獲得のための愚かな行為を人類がこれ以上繰り返す必要はどこにもなくなる。もちろん、各国首脳の合意のもとでなければこれを実現することは出来ない。しかし、今は、これまでのように共生共栄共義主義の理念がなかった時代とは違う。共生共栄共義主義のもとでは、国境を越えて、世界人類を同胞として愛することができる。国際連合や首脳会議を中心として、このような世界を一日もはやく実現していくべきであろう。

 国民が真に願うのは、他国のために生きる母国の美しい姿ではないだろうか。そのような国こそ、国民から愛され、永遠の繁栄を謳歌できる国となるであろう。また、国家をそのように導く国家元首こそ、真の指導者として、自国民のみならず世界全体から永遠に賞賛されることであろう。


 異なる通貨間の貨幣制度について述べておく。

 貿易や投資などで、金融機関から払い出された後の資金の流れは、これまでと何ら変わりはない。

 ここでの問題提起は、外国為替取引に関することである。外国為替取引では貨幣の売買がなされている。ここでは、これについて考えてみる。

 市場における商品の交換には、価格の設定が必要である。価格は取引を成立させる上で必要な前提条件である。そして、貨幣は価格の表示体および尺度として存在している。これは、原理的に捉えると、貨幣は取引の前提条件であるから、取引よりも先に存在するものである。従って、これは本来取引の対象にはあたらない。したがって、貨幣を売買の対象とし相場に乗せることは、本末転倒の行為である。それゆえ、ごく一部の人の取引にもかかわらず国家全体が影響を受けることになってしまう。

 したがって、為替レートの決定方法は、国連の第三者的管理機関等により各国の物価高などを勘案して定期的に更新していくなど、相場制によらない方法を考えてもよいのではないかと思われる。


 そして、この新しい経済モデルを世界に定着させるための新しい国際的な政治機構が必要であろう。国際連合の機能を昇華させ、共生共栄共義主義の理念で世界を治めていくものである。文鮮明先生が提唱されたアベル国連である。ここでは、宗教と政治が一体化した一つの課題として、理想世界を実現していくことになるであろう。また、民族間対立の解決の糸口も見出すことが出来るようになるであろう。



おわりに

 本論文の要旨を一言で言うとすれば、お金(貨幣)を人間の下に置く、ということである。

 今までの人類歴史において、お金(貨幣)は人間の上にあって、人間はお金に支配されてきた。個人においても、家庭においても、国家においても、世界においても、そうであった。

 これを、お金(貨幣)が人間を擁護するような本来の位置を回復せしめるということである。








1. 『原理講論三色刷(A5判)』(世界基督教統一神霊協会、第4版、2007)
2. 『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』(統一思想研究院、2000)697頁
3. 『原理講論三色刷(A5判)』(世界基督教統一神霊協会、第4版、2007)507頁
4. 『原理講論三色刷(A5判)』(世界基督教統一神霊協会、第4版、2007)21頁
5. 『原理講論三色刷(A5判)』(世界基督教統一神霊協会、第4版、2007)533頁
6. 李相軒『頭翼思想時代の到来』(統一思想研究院、1997)121頁
7. 『聖書 マタイによる福音書』9章17節
8. 『国富論T』(中公文庫、12版、1997)138頁
9. 『原理講論三色刷(A5判)』(世界基督教統一神霊協会、第4版、2007)545頁
10. 『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』(統一思想研究院、2000)704頁



2015.12.17 「統一原理に基づく理想社会の経済機構と資本主義社会の金融システム」に、段落「ここまでの説明・・・」を挿入
2016.2.3  図1、図2を添付
2016.7.15  「おわりに」を追記




図1
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図2
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posted by 若枝 at 09:08| Comment(0) | 本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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